| >プロフィール>昔その10 きっかけ |
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そうやって働くようになっていくつかの季節が過ぎていきました。 ある日仕事がはねた後、マスターと早乙女は店のカウンターに座ってビールを飲みながらくつろいでいました。しんとした中、おもむろにマスターが口を開きました。 「今度○○市に店をだそうと思ってる。そんで、そこの店長はおまえにするつもりでいる」 ○○市はとなりの市で、やはり結構な規模がある賑やかな街でした。そこに二号店を出すというのです。 マスターは居酒屋のほかにアパート経営もしていて資金に恵まれていたようでしたが、敢えてそんな激戦区に新店を出す理由が早乙女には見えませんでした。 「おまえにやらせてみたいと思っている。どうだ」 その日から早乙女は真剣に何日も考えました。 マスターが早乙女に店長というかたちであれ店を持たせようとしてくれていることは、言葉の端々から明白でした。激戦区の人気場所に店があるのはステータスなのかもしれません。 ということはここで早乙女がやらないといえばマスターも出店する理由がなくなりますが、逆にやるとなるとおいそれと途中で「やっぱやーめた」はとてもできないでしょう。なにせ大金が自分のために用意されるのです。 若い早乙女は本当に悩みました。一度は包丁を握るのさえ苦痛になっていた商売です。これから先ずっとやり続けていく覚悟はあるか、自分が本当にやりたいことはこれなのか、しみじみ考えました。 たしかに今は楽しくやっている。けれどその楽しみは仕事に対してのものなのだろうか、もし李さんや奥さんがいなくてもちゃんとできるだろうか・・・。 今度は自分がアルバイトを使う立場にたつのだ、おれにそんなことができるだろうか・・・。覚悟をきめるのは到底容易いものではありませんでした。 数日後、再びマスターに「どうした」きかれた時、早乙女は腹を決めました。やめます、と伝えたのです。 「やめる」というのは新店のことももとより、この店をやめるという意味でした。 マスターの話がきっかけで改めて自分の本当の気持ちを考えた結果、「この商売はきらいじゃない。だけどまだなにか違うことができそうな気がする」そう思い当たったのでした。 やっていく覚悟ができなかった以上引き受けるべきでないと思いましたし、そういう自分の半端な気持ちを知ってしまったからにはもう、ここにいることはマスターや奥さんの迷惑になるだけだと気がついたのです。 マスターは眼に涙をためて早乙女をぶちました。何度も何度もでかいてのひらが早乙女の顔に炸裂しました。早乙女もつられて泣きました。顔の痛みよりマスターへの感謝の痛み、そして申し訳なさの痛みでした。 いろんなことがあった・・・ぶたれながらたくさんの思い出が浮かんでは消えていきました。 お世話になったみんなに挨拶をすませ、寝泊りしていたお座敷の掃除をしていると、まだ仕事前のスナックのママが早乙女に靴下をくれました。「いつでも遊びに来なよね」 明るい照明の下でみるママはとても自然に微笑んでいました。あれ以来マスターは口もきいてくれないので、ママの優しさがひどく身に染みました。 嗚呼、おれにはもったいない笑顔だ・・・とまた泣いてしまいました。 別れ際、奥さんは「またね」とだけいってうつむきました。早乙女がひくひくと号泣しているので困っていたのかもしれません。奥さんがそういうふうに言葉を呑み込むことはめったにありませんでした。早乙女はもうなにも言葉になりませんでした。 晴天の昼下がり、駅に向かう自分の足取りはひどく重たいものでした。一度家に戻らねば、と決めていたからです。 → 続き |
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