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>入居後編>駐車場に知らない車が>助手席にて 「ドキンですか?」 |
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いろいろと思うことがあって早乙女は十代半ばで家を出たのですが、その初めての職場に吉澤さんという板前がおりまして、この方には包丁の研ぎかたからシャリの切りかたなど、仕事のいろはを教わり、仕事面でずいぶんお世話になりました。 この吉澤さん、大の車好きでして、遊びに出かける時などに早乙女もよく車に乗せてもらったり面倒を見てくれたのですが、愛車のフェアレディーZに注いでいる情熱ときたら半端なものではありませんでした。 あれは忘れもしない吉澤さんと初めて一緒に遊んだ時のことです。 店の定休日に「これからメシ食いにいくぞ」と電話があり、いそいそと準備をして寮の前で待っていたら、暴走族のような野太いエンジン音を唸らせながら黒いスポーツカーが現れた。ここは閑静な住宅地でありますから、こんなやかましい車が道端で停まっただけで何事かとご婦人たちに家の窓から覗かれる始末。 「乗れや〜」とド派手なアロハシャツと真ん丸なサングラスでキメた吉澤さんは何故か嬉しそう。気恥ずかしいからさっさと出発してもらおうと助手席に乗り込んだら突然頭をはたかれたので「んあっ?」と驚くと、「バカタレ、ドキンだっていっただろーが!」と吉澤さんが怒鳴りました。 先ほどの電話で確かに「オレの車ドキンだから」とは聞いていたのですが、早乙女は意味がわからないまま車の種類か何かだろうと勝手に思っていたので、頭をはたかれてもまるでドキンが土足禁止の意味だとは気がつきませんでした。 よく見ると吉澤さんは裸足で車に乗っていました。そこで初めて早乙女にも怒られた理由が呑み込めたのでありました。 助手席のマットの上にはちゃんとプラスチックの靴置きが用意してあって、早乙女はアディダスの紐靴をそこに揃えるとシートにちょこんと腰掛けました。 車に乗るのに靴を脱ぐなんて初めての経験でしたし考えもしないことだったので、いままで拙いなりにも築き上げてきた人生の価値観みたいなものがこなごなに砕け散るくらいのカルチャーショックを受けたものです。 そういうことなら面倒くさい紐靴なんかじゃなくてサンダルで来りゃよかった、とさっそく後悔するのでありました。 緊張気味に背筋を伸ばしてシートに座ると、吉澤さんは左手でシフトレバーを忙しなく操作しながら車を走らせました。速い車を運転するひとはオートマよりマニュアル式のタイプにこだわるらしいのですが、当時そんなことを知りもしない早乙女はその鮮やかな手さばきをぽかんと眺めてるだけでした。 広い通りに出ていよいよスピードがノってくると早乙女は吉澤さんに勧められるまで失礼ではないかと我慢していたシートベルトに手を触れました。早い話が彼の運転にビビッたわけでありますが、そこで目にしたのはかつて装着したことのない、まるで戦闘機のパイロットがするようなV字型の仰々しいシートベルトでありました。 あまりにも立派なベルトでしたから下手に弄って金でも取られたらたまらねえと判断し、吉澤さんに「シートベルト貸していただいてよろしいでしょうか?」と尋ねました。我ながらなんてあほな質問だろうかと頭を抱えたくなりましたけども、車内にいてもものすごいエンジン音とメタルのボリュームのせいでなかなか吉澤さんに気づいてもらえず、何度も大声でその質問を繰り返さなければなりませんでした。 おまけに慣れないベルトの装着に手間取っていたら無性に気分がわるくなってきて、今度は目眩と吐き気を我慢するはめになりました。 ご馳走してもらった食事はせっかくの焼肉バイキングでしたが、帰りの心配をしたら食欲が湧かずゼリーやメロンなどのデザートしかお腹に入れられませんでした。鉄板の上でジュージュー焼かれるカルビの匂いを嗅いだだけで胃がムッとしてしょうがないので、夏なのにホットコーヒーを入れて肉の匂いに対抗。 だのに吉澤さんは早乙女が遠慮していると思ったらしく、「これ焼けてるぞ〜」といちいち食べごろを教えてくれるのでした。 ありがたい、でも泣ける…そんな葛藤を続けていたらいよいよ気持ちが限界に達し、小走りでトイレに駆け込み吐いた。そういえば子供の頃から遠足バスで酔ってたな、便器に突っ伏してそんなことを考えていました。 吉澤さんのZにはタコメーターというエンジンの回転数を表すものがついていて、走りが自分の思い通りにいってなかったのか、日頃よく「タコがよ〜」とぼやいていました。ですから仕事場で吉澤さんに「サオ、タコッ」といわれても、つい八本足のタコなのか車のタコなのかそれとも早乙女がタコなのか反応に一瞬迷いが生じてしまうことが度々ありました。 まあ、冷静に考えれば仕事中に車のタコはないので、タコの切り身を持っていくか、「ミスですかすいません」と謝るかしかないのですが、その二択すら間違えることも決してなくはないのでありました。 まったく若さとは常に危ういものであります。 この吉澤さんの車へのこだわりは、社会に出たばかりの早乙女に強烈な刷り込みを残しました。「嗚呼、世の中には俺の知らない世界がまだまだあるんだなあ」と、しみじみ考えたものです。 あれから10年以上経ちましたがその過程で土足禁止の車に出くわしたことはありません。ですが、初めてだれかの車に乗せていただくときは今でも反射的に口にしてしまうのです。 「この車、ドキンですか?」 前へ← メニュー 次へ |