実践!一人暮らし‐あたる生活 >入居後編>もしやの不思議体験?>消えたカブト虫2話

夏の夜に



夕陽で地面に長く伸びたT君の影を捉えようと早乙女も一生懸命走った。学校で計る50m走のタイムは早乙女のほうが良かったはずなのに、この日はどうしてもT君に追いつけない。山の探索用にいつもよりちょっとだけ重たい靴を履いていたせいだ。

「そんなに速く走ったら虫が死んじゃうよ」早乙女は虫のせいにしてT君を追いかけた。
「だいじょうぶだよ、だいじょうぶ〜」T君は首にかけた虫かごを確かめることもなくどこまでも駆けていった。


ポイントの手前で山の上流から流れる小さな川を跨ぐために、幅20cmくらいの板が二枚架けてある場所がある。誰がやったのかは知らないが、その橋には真っ赤な塗料が塗られており、雨風にやられ板が黒ずんで朽ち果てそうになるたびに、また鮮やかな赤色で塗り返されていた。

橋を三歩で渡るとポイントはすぐそこだ。近くに着いたら早乙女たちはふざけるのをやめて、ゆっくりと歩いた。虫というのは案外敏感で、目に見えないくらいのたくさんの体毛が不穏な空気の震えを感じとると、たちまち木の隙間などに身を隠してしまうのだ。特にオオクワガタは警戒心がとても強いのでその姿を見ることさえままならない。早乙女がとうとうオオクワガタを捕まえることが出来なかったのは、少年特有の節操のなさのせいだと今更ながら思っている。


根元に立って樹液の染み出しているいつもの場所を見上げると黒光りしているクワガタが一匹、触覚を広げて夢中で食事をしていた。
背伸びをしてもジャンプをしても届きそうにない高さなので、クワガタの種類までは判断がつかない。けれども茶系の色は一切帯びない黒々としたボディと真っ直ぐなハサミの特徴から、コクワガタかヒラタクワガタだと目星をつけた。

「一匹だけか。コクだったら泣くわ」
「とりあえず蹴ってみようよ。もっと上にもいるかもしれないし」

アニメや漫画などではこういう高さのある場所での捕獲は虫網を使うのがベターであるが、実際は違う。クワガタというのは木の振動に対して足を竦ませる習性があるので、本来ならばクワガタに気づかれて穴の中に逃げ込まれる前に何度も思い切り木を蹴飛ばすほうが効果的なのだ。また、虫網には決定的な弱点がある。木は筒状に丸い曲線で出来ている。そこに鉄の輪っかを被せたところで隙間だらけで使い物にならないのである。
ただし体が大きくて太く力強い足を持っているカブト虫に関してはその限りではない。カブト虫は蹴飛ばしても落ちてこないので、手が届かないところにいる場合は何もないよりは役に立つ。


どしん、どしん、と早乙女とT君は木を交互に蹴飛ばした。枯れ枝や木屑が顔にぱらぱらと落ちてくる。クワガタは危険を察知し、身を屈めて足を踏ん張った。

「だめだ、同時にやろう」
早乙女たちは呼吸を整え、せーの! で力を合わせた。

一度、二度、三度…。いい加減足の裏がしびれて痛くなってきた頃、目当てのクワガタは唐突に降参した。
歓声をあげて草むらでひっくり返っている虫を拾ってみると、紛れもないオスのヒラタクワガタだ。早乙女たちは代わる代わる手に取り、コクワガタとは違うその戦闘的なハサミの感触を確かめてうっとりした。早乙女が指から出血するほど虫に噛まれたのは、ヒラタクワガタだけである。


雑木林の中、すでに辺りは薄暗く、カラスたちが早く山から下りるように警告しながら飛んでいる。早乙女たちはヒラタクワガタをかごに入れると転ばないように気をつけながら坂道を駆け下りた。木と木の隙間から太平洋がキラキラと光りながら波を打っていた。この遥か彼方に他の国の人たちが生活を営んでいるなんてこの時はまだ知らなかった。


山から下りるとT君は道端に虫かごを置き、さっき捕ったばかりのヒラタクワガタを指で擦った。ヒラタは気性が荒いのですぐにハサミを開いて威嚇を始め、他の虫に喧嘩を吹っかけようとした。
虫捕りの最後は戦果の分け前だ。今日捕まえた中ではヒラタがいちばん価値があるのは明白で、分け方も自然にヒラタ1とカブ1コク2となった。問題はどちらがヒラタを持って帰るかである。

「じゃあ、いくど」早乙女が合図をして立ち上がると、それぞれじゃんけんの準備を始めた。両腕を交差させて手を組み、そのままよいしょと胸の前に回転させる。捻った手の中を方目を瞑って覗くと相手の手の内が分かるというおまじないである。

「よし!」
「じゃーんけーん…」
「ぽん!」

じゃんけんに勝ったのはT君だった。早乙女は地面に崩れ落ち、さんざん悔しがった後カブト虫とコクワガタを帽子に入れてT君と別れた。しかたない、よくあることだと自分に言い聞かせて。


家に帰ると祖父が縁側でスイカを食べていた。「おかえり」、「ただいま」
祖父はスイカにかぶりつき、口の中の種をプププと庭に捨てた。


夕飯はアジの塩焼きだった。テレビを見ながらそれを食べ終えると一人で風呂に入り、布団の敷いてある部屋で使い込んでぼろぼろになった昆虫図鑑を眺めながら寝た。じゃんけんに負けてヒラタクワガタを逃したことが残念でたまらなかった。

翌朝目が醒めて、餌を取り替えるために玄関先で飼育している虫のところに行くと昨日捕まえたカブト虫がいないことに気がついた。止まり木の下を見ても腐葉土の中をほじくってみてもいない。ノコギリクワガタにコクワガタ、クワガタたちはちゃんといる。先に飼っていた2匹のカブト虫たちも無事のようだ。羽の甲羅にちょっとだけ喧嘩の痕がある昨日のカブト虫だけが忽然と姿を消してしまった。

早乙女は餌のスイカを取り替えると、昆虫が入れてある金魚用の水槽の周りをぐるぐる何度も見渡して探そうとした。でも、どうしても見つからない。
母にそのことを話すと「あんたが別のクワガタばかり気にしてるから、怒ってどこかに行っちゃったんでしょ」といわれてしまった。

本当に虫がそんな感情を持つのかはわからない。
けれどもそういわれればそんな気がしないでもないのだ。



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